第三回ふげん社写真賞グランプリ受賞記念
浦部裕紀「空き地は海に背を向けている」
Gallery Tour Report
第三回ふげん社写真賞グランプリ受賞記念・浦部裕紀個展「空き地は海に背を向けている」会期中の、2024年7月20日(土)にふげん社で開催したギャラリーツアーの様子です。
ふげん社ディレクターの関根が聞き役となり、浦部裕紀さんに作品の概要、写真集の編集過程について、展覧会の作り方などお聞きしました。
関根:本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。「ふげん社写真賞」は、ふげん社の母体である渡辺美術印刷の創業70周年を記念して創設された賞です。浦部さんは2023年に開催された第三回のグランプリを受賞されましたが、第一回と第二回共にファイナリストまで残っています。この賞は一次選考に通過した方が二次選考の面接へ進むのですが、2021年から2023年まで、毎年一回浦部さんとはお会いしていたということですね。
浦部:年に一度、選考員の皆さんとお話をさせていただいていました。
関根:浦部さんがふげん社写真賞に応募されるまでのことは、2024年7月20日発売の雑誌『写真』vol.6「ゴースト」に掲載の記事で紹介しておりますので、ぜひご覧ください。
浦部さんは2023年に第三回ふげん社写真賞グランプリを受賞した後、今年(2024年)の初めから写真集の制作を開始し、約半年をかけて、写真集『空き地は海に背を向けている』出版と、受賞記念個展の開催にこぎつけました。
東日本大震災を起点とする作品の経緯
関根:早速ですが、浦部さんが今作『空き地は海に背を向けている』に取り組まれたきっかけをお聞きしたいと思います。本作のテーマは、単刀直入に言うと、2011年の東日本大震災ではあるのですが、実際に浦部さんが制作に取り掛かったのは、震災から少し間が空いているのですよね。
浦部:そうですね。
関根:そのあたりも少しお話いただけたらと思います。
浦部:経緯は少々複雑なのですが、いわゆる2020年のコロナ渦から、東日本大震災について考えることが増えました。震災時もコロナ禍も、なんとなく皆が一つになっていく感じに、違和感と苦手意識がありました。その時期に、インターネットで震災について調べてみたら、復興事業で生まれた防潮堤や、震災伝承施設などが完成しているのですが、報道の扱いがすごく小さいことが気になり、それで徐々に震災に対する興味が醸成していきました。当時はパンデミックの影響でうまく動けなかったこともあり、2022年の夏から東北を撮りに行くようになりました。
関根: 2011年の震災直後には被災地へ行かずに、インターネットに上がっている映像やTVのニュースで見る映像を東京でただ見ていただけで、実際に現地まで行ったのは、ここ数年(2022年〜2024年)ということですね。
宮城県本吉郡南三陸町志津川 2022-11-15 09:51 ©️Hiroki Urabe
宮城県岩沼市押分須加原 2022-10-25 15:58 ©️Hiroki Urabe
PCモニターを撮影して作り込んだ抽象的なイメージについて
関根:写真展会場に展示されている写真の中には、被災地に赴いて撮ったもの以外にも、画像がモヤモヤして不明瞭だったり多重露光のように見えたりするイメージがあるのですが、これはどういう種類のものでしょうか?
東京都豊島区西巣鴨 2023-07-22 14:22 ©️Hiroki Urabe
東京都豊島区西巣鴨 2024-03-04 00:00 ©️Hiroki Urabe
浦部:これは、自宅でPCモニターを撮影したものです。震災当時見ていた映像やニュース、インターネットの情報、そういったものをもう一度見直しつつ、それを撮るということをしました。僕が東京に住んでいて、東京で何ができるか、被災地とどう関われるかということを考えた時に、僕の原点は、ひたすら情報をチェックすることしかなかったので、その事実に向き合いつつ、表現に繋げたいと思い、制作したのが始まりです。
関根:具体的にどのように撮っているか気になる方もいらっしゃると思います。
浦部:モニターに映った映像を、三脚立ててカメラで撮影しています。3分〜5分くらいシャッター開けて長時間露光しつつ、その間に、モニターの映像を早送りや一時停止したり、あとはカメラをちょっと動かしたり、ピントをずらしたりして、一枚一枚作り込んでいきました。曖昧だけれども力強いイメージが欲しいと思っていましたが、どんな情報が写っているのかは、明確に分かる形にはしたくないと考えながら作っていきました。
関根:ふげん社写真賞への応募した時の写真枚数の内訳は、そのモニターを撮って作り込んだ抽象的なイメージは、被災地をストレートに撮影した写真よりも、だいぶ少なかったですよね。
浦部:被災地で撮影した写真が8割、モニターを撮影したイメージが2割でした。
関根:それで、今回写真集を編む過程で、その内訳が半分半分になったのですよね。
浦部:そうですね。ぴったり5:5になったと思います。
関根:コンテストの応募時から、それだけ映像を撮影した写真が増えたのは、どういった経緯があったのでしょうか?
浦部:写真集の打ち合わせを繰り返す中で、自分の作家としての個性や強みは、映像を撮ることだと考えました。自分は実際に被災しているわけでもないし、ずっと東京住んでいるということもあって。やはりこちらの側面を強く打ち出し、自分の軸としてやってかなくてはダメなんじゃないかと、造本設計の町口覚さんからご指摘がありました。自分としても、コンペに出すときは、そこまでイメージを作りこめてなかったので、写真集を作るにあたって、映像のイメージをしっかり撮りたいという思いもありました。それでひたすら撮り始めると、ずっと東京で撮っていることにも違和感があり、その間も何回も被災地に行って、その時はほとんど写真撮らなかったりするのですが、東京に戻ってきて、東京でモニターを撮って、という繰り返しでした。
関根:浦部さんにとっての「震災」が写っているのは、やはりモニターの映像を撮ったイメージということですよね。
写真家たちに会いに行く
関根:写真集制作にあたって、浦部さんは、震災をテーマにしてこられた作家の方とお会いする機会に恵まれました。その中でも岩根愛さんからアドバイスをいただいたことで、写真集の構成が少し変わったそうですね。
浦部:岩根さんからアドバイスをいただいた中で、一番響いたのは、モニターを撮るような方法で、現地を撮ってみたらというものでした。実は、後でやろうと考えていたことでもあるのですが、そうおっしゃっていただいて、今回やるしかないと思いました。東京でモニターを撮ったもやもやした抽象的イメージと、被災地で撮った具象のイメージの間を上手くブリッジするものがあった方が良い、というご指摘だったのだと思います。それで制作の後半は、被災地を長時間露光で撮影するということを、ひたすらやっていました。
宮城県気仙沼市本吉町津谷長根 2024-03-11 15:54 ©️Hiroki Urabe
茨城県那珂郡東海村村松 2024-04-02 13:49 ©️Hiroki Urabe
関根:東京で撮った写真と、被災地で撮った写真の、ちょうど中間のようなイメージを作っていったのですね。
浦部:そうですね。どこで撮ったのかが分からないものを作っていきました。
タイトルの誕生秘話、そして「復興」の景色に感じたこと
関根:あとは、作品のタイトル『空き地は海に背を向けている』が、とても特徴的で、それに惹かれて展覧会に訪れた方が沢山いらっしゃいました。このタイトルはどのように決まったのでしょうか?
浦部:僕の無意識の発言からの引用です。町口さん、村上仁一さん(雑誌『写真』編集長)と写真集の構成の方向性を決めていく際に、まず写真をそこに写っているもの(「空き地」「海」「防潮堤」「植物」など)でグループ分けをしていきました。その時に、町口さんから「空き地と海が一緒に写っている写真はないの?」と尋ねられて、僕が「空き地は海に背を向けているので、そういう写真は無いですね」と答えたら、場がシーンとなって、「今なんて言った?」って聞かれて。最初怒られるのかなって思ったのですが(笑)その言葉が「いいじゃん!」となり、それがタイトルの候補となりました。無意識の発言だったので、他の候補もいくつか出してはいたのですが、これ以上のものはないということで、ふげん社の代表の渡辺薫さん、飯沢耕太郎さんのご意見も伺い、最終的にはこのタイトルに決まりました。
2024年5月8日 選考員3名が揃った写真集の打ち合わせ
関根:すごくいいタイトルですよね。浦部さんがコロナの後、「復興」の進んだ現地に行かれた時に感じたこと、海と陸地を暴力的に分断するように、巨大な防潮堤が聳え立っていた風景の衝撃が、このタイトルによく表れていると思いました。
浦部:防潮堤は自分には撮れなかったというか、ほかの写真家の皆さんがすでにやられているので、撮ってもしょうがなかった。そのため写真集の編集では、防潮堤の写真は削ぎ落していこう、という方針になりましたが、それらを目の当たりにした時の感情は、自分の制作の最初の動機になっています。
関根:浦部さんが「復興」後の被災地の風景に感じた無機質な印象は、浦部さんが2011年に見た津波の映像とギャップがあったのですよね。
浦部:そうですね。震災当時に見ていた映像は超越的なイメージで圧倒されて恐怖を感じました。実際に現地に行くと、防潮堤や防風林で構成された、コピペしたような風景が広がっていてギャップを感じました。その時に思ったことは、そこに行ったことを僕は覚えていることは多分出来ない、忘れてしまう景色だ、ということです。記憶に残さなければいけない大きな出来事が起こった後に、その風景が出現したことに、強い違和感がありました。
関根: 浦部さんは2011年にももちろん大きな衝撃を受けたけれども、社会も自分自身もその出来事を忘れかけた頃に、作品に取り組みたいと思われたのですよね。
浦部:すぐにみんな忘れてしまうのでは、と考えていました。あとは自分の特性として、他の大勢の人と同じ行動を取れない、ということもあると思います。全てに背を向けていたい、という気持ちもあったのですが、結局そういうことは出来ずに、震災のあとは、いろいろ自分なりに情報へアンテナを張りつつ、いつかは取り組みたいと思っていました。
叫ぶ男と、志賀理江子さんの言葉
関根:写真集に収録されている作品リストには、撮影地と、撮影した日付と時間が記載されていて、これは飯沢さんからのアドバイスもあったかと思いますが、なぜ時間まで入れることになったのでしょうか?
浦部:震災以降は時間の流れが変わったと言いますが、2011年3月11日以後も、ずっと絶えず時間は流れているという事実を、まず表現したかったです。それと同時に、おそらくこの先、被災地の風景が変容して行くと思うので、それを記録に残したいという思いもありました。それから、被災地の風景の中に一人の人間がポツンと写っている写真を何枚か撮っているのですが、自分がこの距離感でしか関われないその人は、顔も写らないので固有性が限りなく薄くなります。その人がその時にそこににいたという現実を、時間を記録することで、その人の固有性をバックアップしたいと思いました。
関根:印象的なエピソードがあって、空き地に一人の男性が写っている写真があるのですが、その人は、叫んでいたのですよね?
岩手県釜石市片岸町 2022-11-29 14:58 ©️Hiroki Urabe
浦部:そうですね。ずっと一人で叫んでいて。その日嫌なことがあっただけなのかもしれないけど、遠い空き地からそういう声が実際に聴こえてくると色々考え込むものがありました。
関根:浦部さんが、石巻に志賀理江子さんに会いに行った時に聞いたある一言が、とても印象的だったとおっしゃっていましたね。
浦部:東京から来た自分は「復興」後の被災地の風景に違和感しかなく、でも現地の方はどう思っているのかがとても気になっていて、志賀さんにやんわりと聞きました。その時に、「被災した人で、この風景に違和感を持っていない人なんていないよ」とおっしゃいました。志賀さんは僕を励ます意図で発言されたわけではなかったと思うのですが、実際その言葉を聞いて励まされたのでした。
関根:被災地の男性が叫んでいたエピソードや、志賀さんの言葉、無機質な風景の話が一体となって、浦部さんがどのように被災地を捉えたのかが、すごくイメージとして伝わりました。
浦部:被災地の人と関わり合って撮らないということは最初から決めていたのですが、そういう一言はすごく欲しかったのだと思います。思いがけないところで、志賀さんから一言いただけたので、すごく良かったです。
展示と写真集の用紙へのこだわり
関根:展示プリントに凄くこだわりがあるのですよね。
浦部:フジフィルムのクリスタルプリントというものです。デジタル銀塩プリントで、光沢が強い用紙を使用しています。モニターを撮っている写真が多くあって、モニター自体発光してこちらに向かってくるイメージなので光沢が強いものを使いたいという気持ちがありました。また、曖昧さと力強さが語り掛けるように、反射してくようなものをイメージしていたため、このラムダプリントを採用しました。
関根:プリントに奥行きが感じられて、イメージ中にあるレイヤーがよく表現されていますね。ちなみに、写真集の本文の印刷用紙も、印刷再現性が良く、写真が精細に見える光沢系のアート紙「SA金藤+」を使用しています。
質疑応答タイム
会場からの質問①
質問者:具体的にどのあたりを撮影されたのでしょうか?
浦部:茨城から岩手まで撮影すると決めていました。青森まで行くと「原発」という要素に引っ張られてしまうと思ったので。結果的に訪れた回数が多いのは福島でしたが、やはりテーマとしてずれてくると思ったので、写真集に収録された写真は、宮城が一番多いです。
関根:北は岩手県宮古市、南は茨城県東海村ですね。撮影中は車を使わずひたすら歩いたと聞きました。
浦部:車は苦手でして、、、電車で移動しました。
質問者:降りる駅は決めていたのですか?
浦部:とりあえず全ての駅で降りました。
関根:写真集に収録されている撮影地リストを見ていて、東北の海沿いの町は、歴史的な地名が多いと感じました。やっぱり昔から津波が来ていた場所なんだろうなと感じさせる地名が多くありました。
浦部:合併などで昔ながらの地名が減ってきましたが、字や町名はある程度残り続けます。その歴史も感じて欲しい意図もあり、地名を載せました。
会場からの質問②
質問者:経歴を見ると、大学卒業後も色々な賞に応募していらっしゃいますが、どういうテーマ、スタンスでこれまで作品を制作されてこられたのでしょうか。変化はしていますか。
浦部:変化はすごいです。何回も自分が崩壊していますね。それぐらい一貫性はないです。デジタルでやることは決めていました。最初はデータの集積を用いた表現を模索していましたが、だんだんストレートな写真に戻っていきました。だんだん真面目になっていったと言うとおかしいですが、テーマとかコンセプトを決めて制作していくようになったのが、ちょうどふげん社写真賞の第一回〜第三回に応募した時期でした。
©️Hiroki Urabe (2011)
関根:1_WALLでファイナリストに残られたのも、全部震災後(2014年、2015年)ですよね。震災は作家としてのターニングポイントだったのかな、と思います。
浦部:まさにそうですね。大学院を卒業して1年目に震災が起こりました。こうなったら全部先行き不透明だ、と思って、もう自分の好きに生きたらいいんじゃないか、というそんな感じがありましたね。
関根:震災を経て写真との向き合い方が浦部さんの中で変容していって、それで1_WALLでは2回連続でファイナリストになって、そこからちょっと間が空いて、2021年にふげん社写真賞に最初に応募されたと。
渡辺代表:ふげん社写真賞では浦部さんは三回とも全部ファイナリストに入っています。だから写真自体、すごくレベルが高い人です。ただ、コミュニケーションが下手で、誤解されやすいところがあるのですよね。でもね、また、来る。それで選考員は皆覚えちゃっている。受賞が決まってから、「もし3回目で落ちていたら、どうした?」と聞いたら、「また応募していました」と。そういう味わい深い人です。
会場内からの質問③
質問者:写真に行き詰まった時にこの人の写真を見る、みたいなことはありますか?
浦部:好きな写真家はいますが、行き詰った時にはまったく見ないです。お酒飲んで撮るとか、多少無茶してでも撮り続けます。ちなみに好きな写真家は、ヴォルフガング・ティルマンス、森山大道、ロバート・フランクです。
最後に・受賞後第一作について
関根:写真集と写真展を作り上げ、展覧会会期中在廊されたりなどしてみて、感じたことはありましたか?
浦部:人に作品を見せること、意見伺うことはとても重要なことだと改めて感じました。僕は周りに写真をやっている人がいなかったので、毎年ふげん社写真賞や1_WALLに応募する、そういう事しかしていませんでした。写真集をつくることも大事だけど、展示もまた重要ですね。
関根:本と空間はメディアのあり方が違うから、それぞれの面白さがありますよね。作品に対するリアクションでなにか感じた事とかありますか?
浦部:批判的な意見ってなかなか本人に言いづらいと思います。肯定的な意見は沢山いただきましたけど、想定していたより、若い人とか震災の記憶が薄い人に対して自分の作品が響いている、自分で言うのはおこがましいのですが、そういう印象がありました。震災をイメージとして見たことはあるけど、実感はないというような人です。僕にとっては、阪神淡路大震災やその後のオウム事件がそうでした。
代表:初めて、何枚かプリントが売れましたね。
浦部:そうです。
関根:作品が売れることは作家にとって何よりの励みになりますね。ちなみに、次回作の構想はありますか?
浦部:もう少しデジタル的な表現で面白いことをしたいなって思っています。普通に写真として、デジタルを扱うということをしっかり考えていきたいです。ストレート写真と、デジタル的な表現をうまく混ぜることが大事だと思います。
渡辺:ふげん社が末長く作家活動をバックアップしていきますので、これからも作品を見せてください。
浦部:ありがとうございます。
関根:ありがとうございました。